仲間の話

EA

ギャンブル依存症の夫の妻  花子

 自分の感情をみとめられるようになった。
私は自分の感情から少し遠かったのかもしれない。

今、感情のるつぼの様な職場で、他人の激しい感情に巻き込まれずにいられている事にEAの効果を感じる。

 感情の吐き出し、無作法な表現、ぐち、不満、やつあたり、なじる、えこひいきなどのオンパレード、、、。 他の同僚たち個人個人に生まれている感情に振り回されたり、それを自分の感情として取り込んだりすることなしに、いられる。
 私の感情は、わたしが感じたのものだけなのだ。

 以前私は自分の感情を取り扱うすべを知らなっかた。
わたしは、自分にはネガティブな感情はない、と思い込みたくてないように振る舞ってきていたようにみえる。
ポジティブ=良い、ネガティブ=悪いみたいなとらえ方である。

 これは、自分的にはいい隠れ蓑だったのだ。私は、正当化をはじめていた。
小さいときから身につけた生き方、楽しいこと、明るいこと、未来、可能性などを求め、それを創りだすような生き方こそが価値があった。
 このやり方はそこそこうまくいった。私はいつも人々といたし、楽しいことをしては笑い転げていた。 私はいじめられないし、その反対もない。人を信頼するし、批判や嫌ったりもない。 暗い話や暗い体験は理解できない。 感情を微に入り細にいり描写した詩などは、何をあんなにこねくり回して、、、と思っていた。
この性格にまで近くなった生き方は、本当に役立った。依存症の夫との生活を長引かせるのに。

そして焼きがまわってきた。

 人生の難局の場面で、にっちもさっちも行かなくなった。ポジティブの魔法はきかなっかた。
頭の先に未来を描いても、未来を希望しても、足は泥にはまっていた。
人間はトータルにしか生きれないのだ。偏った生き方は、正気の生き方ではないのだ。
それがEAにきてわかった。
 わたしはネガティブな感情をもった過去のことや、今の難局についての告白がとても恥ずかしかった。
わたしはかっこつけてて、強がりで、楽天家と思い込んでいる享楽者で、この先には成功が必ずまっている、大物願望のある、ちんけな人間、、、それがわたしだった。
私は生育家庭での身近な人々の合成物だった。自分というものがそうあるわけではなっかた。
わたしはほとんど反応的に生きてきていた。

 自分の本当の姿が現れてきた。
私は真実が欲しかった。私が欲しかったのは、自分が置かれている状況の真実の姿だった。
でも得られたのは自分の真実だった。私が自分の真実から目をそむけていた。
何のことはなっかた。自分が真実の自分を認めていなかったのだ。
 ちいさな告白を積み重ねていったら、等身大の自分で心地よくいられるようになっていた。